東海大学観光学部観光学科 田中伸彦ゼミ

2012年4月 田中ゼミがスタートしました。 2013年3月にホームページをアップしました。

本拠地 

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シリーズ:「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」

「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」(その5) レジャーの思想的側面(古代ギリシャ・ローマ その1)

「レジャーに対する労働の優位」は絶対的価値観か? というテーマについて考えたい。

 

現代の日本は、仕事中心に世の中が回ってる。

夜遅くまで毎日仕事をしていて家に帰ってこないお父さんがたくさんいる。

有給休暇を全て消化しない社会人がたくさんいる。

就活のために大学の講義を休むことは半ば公認されている。 などなど。

レジャーに対する労働の優位は日本国内くまなく蔓延している。皆もこの事実を疑うことなく受け止めてきたのではないだろうか。しかしながら、この「レジャーに対する労働の優位」というものは人類が誕生して以来の不変の原則なのであろうか?答えはNOである。観光学の学生には、このNOという事実をしっかり根拠を挙げて説明できるようになってほしい。

21世紀になって、我が国に観光学部が乱立し始めたのは「観光立国」という施策のためである。政府は「観光立国の実現」は国家的課題であり、21 世紀の我が国経済社会の発展のために不可欠であると考えている。そのため、21世紀の日本の観光産業を担う人材を養成するために高等教育で観光を教える動きが加速したわけである。

高等教育で観光学を修めた学生は、未来の日本の観光の行く末に大きな影響を与える可能性が高い。つまり、君たちがおしなべて「レジャーに対する労働の優位」が人類普遍の価値観だと万が一認識してしまうと、日本の観光は殺伐としたものになってしまうであろう。

人は経済効果を高めるために「観光」をしているのだろうか?

仕事のついでに「商用」観光に行く様なことが、なぜ行われるのか?

仕事を休んで旅行に行くと、「**に行ってきました」と箱に書かれたお菓子など、罪滅ぼしの「土産」を買ってくる。こんな不思議な習慣が人間の生活を豊かにするのか。

仕事で「忙しい」ことが美徳の日本。でも旅で見聞を広めた方が人間の幅が広くなるのではないか。忙しいまま死んでいってもいいのか?

「観光」は、日本では経済効果を上げるための手段にすぎないのか?「観光学」を修めた君たちは、会社の売り上げを上げさえすれば、人間性を豊かにしないツアーを売り続けて良いのか?

この不思議な状況を真摯に受け止め、将来の観光産業のあり方について深く思いを巡らせることができる人間に成長してほしい。

そのために、過去の歴史を振り返り、レジャーの思想的変遷について学んでもらう。

今回から次回にかけては、遙か古代にさかのぼる。古代ギリシャ、古代ローマ時代におけるレジャーに対する代表的価値観を、ごく簡単であるが紹介する。なぜ日本ではなく、欧米なのか。これにはいくつか理由がある。まず、古代ギリシャや古代ローマ時代、つまり縄文時代や弥生時代には、日本には文献が残っていないのである。そのため縄文人や弥生人のレジャー観は検証しようがないのである。実はこの状況は中世においても継続される。例えば禅宗の考えに「不立文字」という考え方がある、「明文化された思想は、解釈次第で都合良く変わってしまうので、あえて文字を立てない」という考え方である。この様な考えが浸透しているためか、日本には哲学やロゴスの世界は成立しづらく、論理的な思想史をたどることが難しいのである。

なお、「日本人の心の歴史」については有名な著書もあるのでそちらを参照されたい。

ギリシャ語でレジャーはSchole(スコーレ)と呼ばれていた。ラテン語ではOtium(オティウム)ないしはLicere(リセーレ)と呼ばれていた。

スコーレは現代英語ではschoolにつながる。「自由時間をいかに人間らしく生きるか」を考え、自己を高めるために集まる場所、それがschoolである。その頂点にある大学は、実のところ究極のレジャーランドなのである。現在は、「自己を高める」というよりは「怠惰な娯楽を享受する」という意味で「大学のレジャーランド化」が憂慮されているが、これからの大学は本来の意味でのレジャーランドを目指すべきであろう。

ところで話を変えると、当時の「労働」はなんと言われていたのだろうか。「ascholia:アスコリア」つまり、Not leisure(レジャーの否定形)で表現されていたのである。労働という概念には独立した言葉がなかったわけである。この当時、人々の意識の中心には「レジャー」があり、その周縁概念として「労働」があったのである。ギリシャ時代は「労働に対してレジャーが優位」だった時代といえる。

これと同じことは、ラテン語の「Otium(オティウム)」にも当てはまる。レジャーつまり「Otium(オティウム)」の否定形が、仕事に当たる「negotium」。現在のnegotiationである。仕事はあくまでもレジャーの付加物であったわけである。

加えて言えば、ラテン語ではレジャーは「Licere(リセーレ)」とも呼ばれている。現在フランスの後期中等教育機関、lycéeつまりschoolにも繋がる言葉であるが、英語ではライセンスlicenseの語源となった言葉である。「人間が人間らしく自由に生きることを許容されること」それがリセーレなのである。

人間が人間らしく自由に生きるための手助けをすること。それが観光関連産業に携わる者に求められている能力なのではないだろうか。

 

 

 

「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」(その4) エンデの『モモ』を読もう

「学問はファンタジーには勝てない」
細々とではあるが、四半世紀学問に携わってきた訳であるが、一貫して上記の様に感じている。
学問を通じて何かを理解しても、必ずしもそれがその人の身についているとは限らない。しかしファンタジーを通じて何かを悟った人は、道を踏み外すことが非常に少ない。それを忘れてしまうことはまずないのである。

レジャー論においてもそれは当てはまる。私自身はアリストテレスのレジャー論やピーパーの「余暇と祝祭」論、鈴木正三の職業倫理など、レジャーや労働に係る各種学説などを読むとワクワクするのであるが、大半の人は眠くなるのがオチであろう。

その様な中で、目の前にいる200人の学生に「お勧めのレジャー論の教科書は?」と質問された場合、私は学術書や論文ではなくミヒャエル・エンデの『モモ』を推薦すると思う。
『モモ』は3部作21章の児童向けの長編物語である。ストーリーは各自読んで頂きたい。私が『モモ』をレジャー論のテキストとして推薦するのは、第1部の「モモとその友だち」で「レジャーの本質」を、第2部の「灰色の男たち」では「現代社会の本質」を、そして第3部の「<時間の花>」では「人生における時間とは?」『資本主義と効率主義は人間を幸福にするのか?」ということを考えさせてくれるからである。
この様な難しい課題を児童向けの文学書としてワクワクドキドキする筆致でまとめているエンデ氏と訳者の大島氏には脱帽である。この様にして身にしみたレジャー観は「けっしてぬけない鉤針のように心にしっかりくいこん」で来ること間違いないと思う。

是非、学生のうちに一度読み、そして社会人になってから再び読み返して頂きたい。

「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」(その3) 教養としてのレジャー・レクリエーション

「観光学は教養学の実学版だ」ということを、他の講義でも良く私は発言しているが、「レジャー・レクリエーション学は教養学そのものである」といえる。

「教養」を英語でいうと何になる?と問えば、大学関係者はLiberal  Artsであると答えることが多いだろう。

今は事実上、東海大学からはなくなってしまったが、昔は「教養課程」というものがあった。教養課程とは、大学1~2年の間に、専攻にとらわれず、広く深く学術の基礎を学び人間性を涵養するために設けられていた課程のことである。今でも、文理共通科目や体育系科目、語学の一部などがこの教養課程の名残として残されている。大学の学部とは本来はこの「教養」をしっかりと修める機関である。まめまめしき「専門教育」は、教養が身についたことを前提に学ぶべき学問である。何はともあれ、この大学で教える教養科目のことを一般的にLiberal  Artsという訳である。

Liberal  Artsの起源はギリシャ時代にさかのぼることが可能で、ヨーロッパ中世の大学教育では文法学、修辞学、論理学、代数、幾何、天文学、音楽の「自由7科」がLiberal  Artsを構成していた。東海大学では教養課程は廃止されたが、東京大学やICU、玉川大学などでは今でもLiberal  Artsを重視した教育カリキュラムが今でも実施されている。欧米の大学では、未だLiberal  Artsが重視されていることは忘れないでほしい。

ところで、教養という言葉を普通の和英辞典で引くと、真っ先に出てくる単語はLiberal  Artsではない。Cultureである。Cultureというと普通は「文化」という言葉が浮かぶと思うが「教養」もCultureなのである。「文化」は「教養」を素地として生まれるのである。

ところでCultureとは何か?「耕す」という意味を持つCultivateの名詞形である。畑を耕すと立派な作物が育つ。頭を耕せば立派な教養が身につき、立派な教養が身についた人々が集まれば、立派な文化が生まれるのである。学校のグラウンドのように耕されずに踏み固められた土地には立派な作物どころかペンペン草も生えない。同じように耕されずに放置された頭には立派な教養が備わる訳がない。耕された土地は雨水をしっかりと吸収するが、グラウンドに降った雨水は地面に吸収されずに外に流れ出てしまう。耕された頭は学問をしっかりと吸収するが、そうでない頭にいくら学問を授けようとしても定着せずに外に流れ出てしまう訳である。

レジャー論を学ぶ目的は、「自由時間を以下に使うか(消費するか)」というノウハウを身につけることではなく、「自由時間を如何に人間らしく生きるか」という教養を身につけることにある。そのことを忘れないでほしい。

 

ところで、教養は時代や民族によって内容にバリエーションがある。

日本人には日本人が育んだ文化をベースにした教養が、イギリス人にはイギリス人が育んだ文化をベースにした教養がある訳である。その点で、日本人の教養のベースとなる文化が、現在ブレにブレている。その大きな原因は明治以降の日本の近代化の過程に潜んでいる。

まず明治維新で、当時の日本人はそれまでの文化を否定し、廃仏毀釈に走り、江戸時代の制度を捨てた。さらに第二次世界大戦後にもそれまでの文化を否定し、国家神道を止め、戦前の制度を否定した。レジャー・レクの分野にもその余波はおよび、戦後まもなくは神道につながる祭礼や、軍国主義につながる武道などが禁止された。

その替わりに、日本人にはアメリカからきたダンスやゲーム、スポーツなどの「レクリエーション」があてがわれた。戦後暫くするトレジャーの時間も持てるようになったが、やはり伝統的な余暇生活よりも西欧化されたレジャーが推奨された。本来、レジャーは文化をベースにした教養から生まれるものである。戦後まもなくの日本のレジャー・レクリエーションは、日本の伝統的な文化に基づかない教養をベースに営まれるという得意な過程をたどったのである。

非常に特異なケースであるが、その様な状態が続いてからまもなく70年。この様な状態におかれた日本人は3世代に達している。実際アメリカから来たテーマパークやアメリカ起源のダンスなどが、カウンターカルチャーではなく堂々と日本の主流の文化として認知されつつある。この様な我が国の文化の変容をどうとらえていくのか。観光業界に携わる人間としてどの様に受け止めていけば良いのか。非常に大きく、悩ましい問題である。この問題に正解はないし、大勢の方向性も定まっていない。

これから皆さんが解決すべき大きな課題なのである。

 

 

 

「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」(その2) 大学の観光学でレジャー・レクリエーション論を学ぶ意義

観光学で、なぜレジャー・レクリエーション論を開講するのだろうか?

理由を簡単に言ってしまえば、例えば、多くの人に満足のいく旅行を提供するためである。でも、ところで、どうすれば満足のいく旅行を提供できるのであろうか? 観光学部の学生として何を身につければ満足のいく旅行の提供者になれるのであろうか。答えは一筋縄ではいかない。

 

第一に、「旅行業務取扱管理者」など旅行に関する実務知識を身につけることが大切であろう。複雑な旅程管理を任せられる信頼のあるパートナーがいれば、旅行者は心強い。現地の添乗員に語学が達者な人がいるのも頼もしい。英語はもとより、もう一つぐらい日常会話ができる言語を習得しておくことは、とてもよいアドバンテージになる。礼儀作法やホスピタリティを心がけることも大切である。他人を不快にさせないことは何にも増して重要なサービス産業の基本である。これらのことは観光学部の学生にも学んで欲しい。大学在学中に上の3つすべてをこなせるようになった学生は、実際の所、就職戦線でも結構引く手あまたになるのではないかと思う。

ただ、意地悪なことを言えば、上記の3つとも特に大学で教えなければいけないというようなものでもない。実務知識も、語学も、礼儀作法も専門学校においても似たようなカリキュラムがある。大学にせっかく来たのだからプラスアルファを学ぶと格好いい。

まずは、観光学部であるから観光学の枠組みを押さえることをお勧めする。観光学は「メタ領域学」である。メタ領域学とは複数の領域学から構成される学問のことである。領域学が2階の学問であるとすれば、観光学は3階の学問である。

では、2階には何があるか。キーワードは「マネジメント」である。マネジメントには2種類ある。1つ目は観光を扱う企業や団体をどうマネジメントするのかという学問である。「経営学」のことである。この場合のマネジメントは「経営」と訳されることが多い。観光学は産業を扱う学問である。産業でお金を稼ぐ企業が効率よく動くにはどうすれば良いのか、企業のドメインを定め、戦略を組み、それに合わせて組織をつくる、そのノウハウを科学的に追求する「経営学」の知識がしっかりしていなければ3階の観光学は不安定になってしまう。

2つ目のマネジメントは観光で赴く場所をどうマネジメントするのかという学問である。この場合のマネジメントは「管理」と訳されることが多い。このマネジメントに対応するのは「地域管理学」なのであるが、地域管理学は現在では細分化されて各々独立した学問となっている。都市域は「都市計画学」、農村は「農村計画学」、林地は「森林学」、自然公園地域と自然保全地域は「造園学」が、代表選手といったところか。

いずれにせよ3階の「観光学」を安定して修めるためには、「経営学」と「地域管理学」という2階の2つの学問の基礎もしっかり修めなければならない訳である。

ところで「経営学」と「地域管理学」は2階の学問である。2階と3階だけでは空中の楼閣になってしまう。地に足が付いていない。「天空の城ラピュタ」のようでかっこいいかもしれないが、地に足の付かないままに言動を繰り返していると、学問の世界からは仲間はずれにされてしまう。実務出身の教員が数年して昔の経験談が色あせてきたときに陥る「燃え尽き症候群」の原因はここにある。

閑話休題。1階部分の学問が必要なのである。それらはいわゆる「ディシプリン」とよばれている学問である。観光学に関わりの深いディシプリンには「心理学」「社会学」「経済学」などの文系学問や「生態学」「地学」などの理系学問がある。文系理系にまたがって、幅広い学問のディシプリンを観光学部の学生は習得しなければならないのである。私が「観光学」のことを教養学の実学版だと常日頃主張している理由はここにある。観光学は「たこつぼ研究」に逃げられないのである。(間違って観光学の世界に足を踏み入れ、学問の幅の広さに恐れおののき、元いた自分の学問にしがみつく「たこつぼさん」になってしまう研究出身の教員はたくさんいるが...またまた閑話休題)。皆さんは観光学部に入学してしまったのだから、心を引き締めて、半ば諦めて、この幅広い教養に裏打ちされた観光学の大海を泳ぎ回って欲しい。

さて、「1階から3階まで揃った。もう家としては十分だ。」と思った方はちょっと考えて欲しい。家には基礎(土台)が必要であることを忘れてはいませんか。もちろん縄文式竪穴住居のように土台のない家はこの世に存在する。でも、その様な家が3階建ての家を支えられるわけがない。メタ領域学である観光学を支えるには1階の、その下の基礎(土台)をしっかりと構築しなければならない。その基礎に当たるものは思想や哲学、言い換えれば形而上学に当たるものであり、レジャー論はそれに相当する。

「自由時間をいかに人間らしく生きるか」を考える学問がレジャー論である。企業のマネジメントをするにせよ、場所のマネジメントをするにせよ、その基礎(土台)として「充実した人生を送っている人間の存在」が前提となる。不幸せな人間が金に任せて世界各国を飛び回っている姿は想像したくない。せっかく観光を推進するのであれば、幸せなかたちで推進することが基本であろう。その土台を支えるのがレジャー・レクリエーション学である。

実のところ、レジャー・レクリエーション学ではなす内容は、君たち二十歳前後の若者よりも、企業の管理職など中高年の人たちの方に受けが良い。まだまだ頭が身軽な若者は少々土台が緩んでいても何とかなってしまうのであるが、責任が重くのしかかる中高年の管理職になると、土台の打ち直しを真剣に考えるのである。

悪いことは言わないので、せっかく観光学部に入ったのであるから、今のうちに基礎(土台)をしっかりと造っておくことを進める。後々楽になること請け合いである。

 

3階の観光学を支えるため、「2階の2つの領域学をしっかり修めること」、「1階のディシプリンを修めること」は、専門学校ではなかなかできない大学ならではの観光学のカリキュラムである。そこに強固なレジャー論という土台を加えて欲しい。世界を股にかけて働きたいと思っているあなた。レジャー論は欧米の観光学の人の間では決してマイナーな科目ではありません。世界に与するためにも、是非とも二十歳前後のうちにレジャー論を修めて、確固たる土台を築いてください。。

「観光学」を学ぶ人のための「レジャー論」(その1) 観光学におけるLR科目群の位置づけ

本講義は観光学部の講義である。将来観光に関連する職につく人、観光に関わる研究に携わる人などがこの講義を受講することを想定している。

 

本学では観光学を4つの切り口から学ぶように科目群を設定している。それぞれ「観光文化科目群」「サービス・マネジメント科目群」「地域デザイン科目群」「レジャー・レクリエーション(LR)科目群」と呼んでいる。これらの科目群は、「観光」という現象を4つに細かく切り分けて、4分の1ずつの内容を教えるものではない。どの科目群も観光全体を捕らえている。ただ、「観光」という現象に対峙する切り口が違うということである。まずそこをしっかりと把握しておいてほしい。

 

講義名からも分かるとおり、本講義は「LR科目群」に相当する。今回のブログでは、この科目群の構成と、科目群における「LR論」の位置づけについて解説したい。(他の科目群は時間があったら別の日のブログで解説したい。)この科目群に相当する科目には、実習・研修なども含めると20あまりが該当する。

 

さて、「LR科目群」では、観光をどの様に捕らえているのか?「デスティネーション・マネジメント」というキーワードをかませると、理解しやすくなる。

「観光」という行為には、何が欠かすことができないのであろうか?JTBや近ツリのような旅行業者?電車や飛行機のような運輸産業?宿泊するためのホテルや旅館? 確かに、それらの産業は現在の観光を語る上で重要な位置づけにある産業であるし、この学部を卒業した多くの学生がこれらの産業へと旅立っていくのであろう。

しかしながら、である。自分で情報を集めて宿や乗り物を手配すれば、必ずしも旅行業者はいらない。歩いて行けば電車も飛行機もいらない。野宿をしたり知人のうちに泊めたりしてもらえば宿泊業者も必要ない。つまり、これらの産業は絶対に欠かすことのできない要素ではないことが分かる。

 

では、「観光」に必要不可欠なものは何か? 結論を急ごう。2つある。

 

1つ目は観光に出かける「人」である。人がいなければ観光という現象は成立しない。もちろん想像の世界では「犬の観光」とか「宇宙人の観光」などといったことも考えられるが、あくまでも想像、SFの世界。こういうことを考えても現実的ではない。「人」は観光に必要不可欠なのである。ただし、条件がある。年がら年中働いている人は観光に出かけることができない。「余暇時間を持った人」でなければ観光はできない。また、「余暇を遂行する能力のある人」であるというのも重要である。自分のうちから遠く離れて出かけても、風景に感動することも、郷土料理を楽しむこともできなければ観光したとは言えない。さながら「市中引きまわしの刑」にあっている罪人と何ら変わりはない。たまに旅先でも一日中ゲームをしている子供や、携帯から離れることができない大人がいるが、そういう人間は場所を移動したとしても、ツーリズムのお客にはなるのだろうが、観光したとは言えないであろう。(「観光」と「ツーリズム」の違いについては『「観光学」って何をしているの?(3)教養学の実学版である「観光学」』の号を参照)

 

では、2つ目は何か? それは観光の「目的地」である。人がいても、行く場所がなければ「観光」という現象は成立しない。観光のための「目的地」のことを、我々は「デスティネーション」と呼ぶことも多い。

目的地は様々なものに分類可能である。切り口はいくつかあるが、まずは目的地の「自然」に魅力があるのか、「文化」に魅力があるのかといった分け方がある。本学では、「観光文化」の科目群があるので文化的要素を「LR科目群」で扱うことは少ない。(自然についてはLR科目群のカリキュラムで教えることになっている。)

また、魅力のある目的地(ツーリスト・アトラクション)は、「観光資源」「観光施設」「パーク」「イベント」「(世界遺産などの登録)制度」「スポーツ会場(活動・参加)」などに分けられる。観光学を学ぶ学生はこれらのデスティネーションがその様な意味を持ち、どの様な経営・運営・管理をしなければいけないかを学ぶ必要がある。要するに「デスティネーション・マネジメント」である。観光学の学生は「デスティネーション・マネジメント」のセンスが高くなければいけない。

 

LR科目群図はクリックで拡大

 

改めてまとめると、上記図内の黒字で示した部分のとおり、観光とは「人が目的地を訪れる現象」であると定義できる。

そして、本学のレジャー・レクリエーション分野では、人を「余暇時間と余暇を遂行する能力を持った人間」と捉え、その人間が自由裁量時間の中で「娯楽・休息・祭礼」などのために「目的地(デスティネーション)」を訪れる現象を総合的に取り扱う。

上記の分野を体系的に教育するため、LR科目群の個別科目は6つのカテゴリーから構成されている。

 

1つ目が「全体像の俯瞰」である。学部生がレジャー・レクリエーションという学問分野の全体像を理解するために置かれている科目である。これは学部初期に導入的に行われる「レジャー・レクリエーション入門」と、学部後期に総括的に行われる「レジャー・レクリエーション総合研究」の2科目からなる。

2つ目が、「余暇時間と余暇を遂行する能力を持った人間」という、人的側面を理解するために置かれている科目である。これには「レジャー・レクリエーション論」の1科目が該当する。

3つ目は、「娯楽・休息・祭礼」などのために訪れる「目的地(デスティネーション)」の特性の理解である。これには「レジャー・レクリエーションリソース論」、「ファシリティ・デザイン論」、「パークス&リゾート論」、「イベントプランニング論」の4科目が該当する。なお、場所を囲ったり設備を設けたりするものるものではないが資産登録などを通じてデスティネーションとしての一体性を持たせる「制度」的側面については「世界遺産論」、「日本の文化財」など、他科目群で関連の深い教育がなされている。

4つめは、デスティネーションの自然性/文化性という種別に係る特性に関する理解を深めるための科目である。これには「ネーチャー・レクリエーション論」の1科目が該当する。なお、文化性に係る科目については「観光文化科目群」において原則開講されている。

5つめは、「レジャー・レクリエーション活動・産業を管理する人材の育成」に係る科目である。これには「レジャー・レクリエーションサービス論」、「レジャー・レクリエーションマネジメント論」、「レジャー・レクリエーションリーダーシップ論」の3科目が該当する。

6つめは、「レジャー・レクリエーションの実践を通じた理解」を深める科目である。これには「安全と救急救命1・2」、「レジャー・レクリエーション実習(夏季・冬季)」、「観光学実習」、「観光学研修」、「キャリア開発」が該当する。

『「観光学」を学ぶ人のための「**論」』シリーズを始めます

いよいよ春セメスターが開講する。

今セメスターは、いわゆるマスプロ型の講義科目の受け持ちが多い。「レジャー・レクリエーション論」、「パークス&リゾート論」、「ネイチャー・レクリエーション論」の3科目である。なんと、みんなカタカナ科目。「こんなチャラけた名前では、ろくな講義をやっていないのではないか?」といぶかしむ人も多いかもしれない。

「ろくな講義ができているか否か」については、私本人がジャッジする立場にないのだろう。受講生の判断にお任せする。

ただ、これらの講義科目はいわゆるヨーロッパや北米、オセアニア等の西欧諸国ではごく普通に行われている科目である。レジャー・レクリエーション関係の学部学科が欧米諸国には普通にあり、このような講義を受ける多くの学生が存在しているのである。(平成も四半世紀過ぎてから「欧米では...」という論調を使うのはこっぱずかしい気もする。でも、これは厳然たる事実である。)

東海大学観光学部では、新設の観光系大学にありがちな「専門学校+α」型のカリキュラムや、「第二経営学部や第二文学部」のような看板掛け替え型のカリキュラムは採用していない。観光という実業に対処できる幅広い国際的な教養を持った人間を育てるためのカリキュラムが組まれている。欧米系で盛んなレジャー学を日本の観光学のカリキュラムに取り込んだ経緯もココにある。単に「観光を活用した金稼ぎ = エコノミックアニマル」ではなく、「人として誇れる観光」を我が国に定着させたいと考えている。そのために、レジャー論を学部教育の柱の1つにしようと試みているのである。このような導入の経緯から、学部開講時に文科省に届け出た上記の講義科目がカタカナ科目になったのではないかと思う。(私自身がその手続きに参画したわけではないので推測の域を出ないのであるが...)

 

いずれにせよ、今のところ「観光学部生」に向けた「レジャー論」「パーク論」「ネイチャー論」の教科書は、私の知るところ日本には存在しない。私が大学に赴任してから3年経つ。その間、私はこれらの講義を、自前の資料とパワーポイントで講義を行ってきた。私立文系の「観光学部」に入学してくる学生に、どの程度の前提知識があるのか、どの点に興味を持っているのか、どの水準から講義を開始すべきかなど手探りの状況で進めてきたのが事実である。

今年は学部の完成年、状況もだいたい分かってきたし、そろそろこれらの教科書もまとめていかねばいけない。ただ、いきなり出版用原稿をまとめるには手間と時間が大きくかかる。

 

そういう状況を鑑みて、このブログを活用して「観光学を学ぶ人のためのレジャー論」、「観光学を学ぶ人のためのパーク論」、「観光学を学ぶ人のためのネイチャー論」、をしたためていこうと考えている。

本来の講義は15回で構成されているが、このブログで15回書けるか分からない。また、内容も完璧版ではなく、あくまでブログ仕様で書いていこうと思っている。

ただ、通常の講義を受けている学生の復習にはなる程度の内容を綴っていきたいと考えている。

調査解析や公刊図書・論文執筆、学会委員等の負担は春休み中と変わらないので、ティーチングに加えてブログを書いていくと、夏休みまで相当タイトな日々となろう。しかし、何とか乗り切っていきたいと思っている。途中で挫折したらごめんなさい